小宮商店 KOMIYA SHOTEN

語り継がれる想い
– 創業者・小宮寶将の肖像 –

シリーズ 『語り継がれる想い』
第1話 – 創業者・小宮寶将の肖像 –
第2話 – 2代目社長・小宮武との出会い –
第3話 – 激動する市場の中で、「小宮商店の洋傘」が形となる –

「おはよう!」と社内に響くのは活気のある大きな声。
誰よりも明るく挨拶をしてくれるのは、今年78歳になる石井健介。

職人であり、スタッフでもある石井は人生の半分以上を小宮商店とともに歩んできました。
現在も私たちスタッフや職人への指導や手元(持ち手)付けなどで、小宮商店を支えてくれています。

私たちは、そんな石井にこれまでの小宮商店のことや、創業者である小宮寶将(ほうしょう)についてを尋ねました。

このコラムでは、今日にいたるまで様々な波を乗り越えてきた石井だからこそ語ることが出来る出来事や大切にしてきた想いを数回に分けてご紹介いたします。

小宮商店 傘職人 石井健介

小宮寶将は出身地・山梨の先染め織物を使い、洋傘を作り始める

小宮商店の歴史は、創業者の小宮寶将が山梨県大月市から上京し、鈴木隆則商店で修行を始めたことからスタートします。 1919年(大正8年)のことです。

11年間の修行を経て、寶将は同商店を円満退社し、独立。 1930年、日本橋浜町に洋傘製造卸業「小宮寶将商店」を開き、故郷・山梨の先染織物「甲州織」を使った洋傘の製作を始めました。 これが来年2020年に創業90周年を迎える当社のルーツです。

ところで、なぜ彼は傘の製造を志したのでしょうか。 それには、2つの背景がありました。 1つは故郷・山梨で親戚が傘屋を営んでいたこともあり、傘の製造については一定の知見があったこと。 もう1つは、流通経済が十分発達しておらず、お金を出してもモノが買えるとは限らなかった時代、山梨の織物業者との人脈が大きな強みになったということです。 これらの強みを生かしながら、奮闘しました。

しかしながら、やがて第二次世界大戦が勃発すると、戦時統制の影響を受けて、物を思うようにつくることができなくなっていきました。 さらに、空襲によって店舗が焼失するなど、並々ならぬ困難に直面します。 どうにかこうにか戦火を逃れた寶将は、終戦後、日本橋橘町(現在の東日本橋)に店舗を移転。 堅実経営に徹しながら洋傘とショールの製造卸を営み、1951年には「有限会社小宮商店」を設立しました。

小宮商店 店内 昭和
寶将の妻・種子。当時の店内の風景。

私は5、6年、寶将と一緒に仕事をしましたが、穏やかで冷静、積極的に人の意見を取り入れる柔軟性を持った人でしたね。 その一方で、芯が通っているといいますか、「これぞ」と決めたことは一念を通す頑固な一面もありました。 そして、ハイカラな人でした。 洒落た帽子を被って、当時の庶民にとっては縁遠い存在だった喫茶店に足繁く通っていたんです。 東日本橋の店の2階で、横浜の傘屋さんと趣味の将棋を指す姿もしばしば見掛けました。

印象に残っている言葉があります。 「凧は風に向かって高く昇るもの、常に凧糸を引いて緩めることをしないと凧は落ちる」――。 引っ張りっぱなしでも、緩めっぱなしでも凧は揚がらないんだと。 ときには引っ張り、ときには緩めたりすることによって、はじめて凧は空高く揚がる。 経営も同じだというんですね。 戦前・戦後の混乱期を生き抜いてきただけあって、実感の込もった、そして、本質を突いた言葉だと思います。

そういえば、私が上野のファッション専門店に飛び込み営業に行ったとき、突然、後ろから呼び止められたことがありましたっけ。
「おい、石井くん。 なんでこんなところにいるの?」
振り向くと、かわいいお孫さんを連れた彼が立っているではありませんか。 私は「ちょっと人と会うようがあって……」とごまかしましたが、きっと彼は流行のファッションを探るべく、日頃から、デパートやファッション専門店を見て歩いていたのでしょう。 ちなみに、一緒にいたお孫さんは、そう、現社長の宏之さんでした。

小宮商店 傘職人 石井健介

シリーズ 『語り継がれる想い』
第1話 – 創業者・小宮寶将の肖像 –
第2話 – 2代目社長・小宮武との出会い –
第3話 – 激動する市場の中で、「小宮商店の洋傘」が形となる –

BRANDS
ブランド紹介