小宮商店 KOMIYA SHOTEN

語り継がれる想い
– 2代目社長・小宮武との出会い –

語り:石井健介(職人・技術指導)

シリーズ 『語り継がれる想い』
第1話 – 創業者・小宮寶将の肖像 –
第2話 – 2代目社長・小宮武との出会い –
第3話 – 激動する市場の中で、「小宮商店の洋傘」が形となる –

前回は創業者・小宮寳将の思い出について語りました。
今回は寳将の息子であり、小宮商店2代目社長(現会長)の小宮武との出会い、そして、私、石井健介が小宮商店に入社した経緯についてお話をしようと思います。

小宮商店 店内 昭和
今年78歳になる石井健介。 職人であり、スタッフでもある石井は人生の半分以上を小宮商店とともに歩んできました。

私が郷里の埼玉県から集団就職で上京したのは1957(昭和32)年。 15歳の春でした。
入社したのは日本橋の洋傘製造卸会社。 東京の会社に勤められるということで大きな希望を抱いて上京した私ですが、そうそう事はうまく運びませんでした。 主人の住居兼店舗に住み込み、“小僧”として番頭さんの手ほどきを受ける日々が始まったのです。 最初は“お使い仕事”で日本橋界隈を自転車で駆け巡ってばかりでしたが、10年余に及んだ傘屋での修行により、洋傘づくりの基本を一通り学ぶことができました。 洋傘の製造は地味で手間のかかる仕事ですが、とにかく根気強くやりましたよ。

小宮商店 店内 昭和

小宮武と知り合ったのも、この会社での修行時代でした。 共通の卸先であった浅草・仲見世の傘屋で何度か出くわすうちに、「俺、お前」の仲になっていったんですね。 小宮武は当時から親分肌。 共通の趣味の登山などを通じて、プライベートでも親交を深めていきました。 北アルプスの白馬岳に縦走の旅に一緒に出かけたこともありましたっけ。

甲州織先染めの魅力にかけて、

決意する二人

私たちは傘づくりのことや市場の変化について語り合いました。 彼と話していくうちに私たちは似たような市場(草履屋など)に目をつけていることがわかりました。 二人の考えは一致していたので、話しは次第に現実的な戦略へと変わっていきました。 「石井くん、俺の下に来てやってくれ。」と誘われましたが、お世話になっている会社の方々や家族のことを考えると、即座に「はい、わかりました」というわけにはいきませんでした。

小宮商店 店内 昭和
北アルプスの白馬岳にて

そうこうしているうちに業界に激変が訪れます。 洋傘販売の主戦場が、専門小売店から量販店や駅ビルへと変化していったのです。 “三屋三堂”(長崎屋・扇屋・十字屋、ヨーカ堂・赤札堂・キンカ堂)なんていわれた時代です。 大手総合スーパーチェーンは外国製の非常に安価な傘を販売し、一躍人気を集めました。 “囮商品”あるいは“目玉商品”として販売されることもあり、傘の専門小売店はたちまち苦境に立たされ、悲鳴を上げはじめます。 私たちは相当な危機感をもって、たびたび話し込むようになりました。

そして、ついに決断に至るのです。
当時の私の日記には次のような一節があります。

「激動した流通経済で生残りを賭けた二人、傘屋の出合い。 
甲州織り先染の魅力に小宮武と石井健介とが結ばれた」

(原文ママ)

その頃、私が勤めていた会社は、量販店対策として、安価な商品を手広く展開しはじめていました。 私や小宮武が目指す方向とは違いました。 圧倒的な規模を誇る量販店と同じ土俵で勝負を挑んでも、私たちに勝ち目はない。 むしろ、商品を絞り込み、先染め織物(甲州織)を使った職人の手づくりによる高級品の製造と販売に集中すべきではないかと。 武の思いも同じでした。 そこで、私は小宮商店に入社。 彼のもとで、新たな販路の開拓に向けた挑戦を進めることになりました。
1974(昭和49)年、28歳の春でした。

シリーズ 『語り継がれる想い』
第1話 – 創業者・小宮寶将の肖像 –
第2話 – 2代目社長・小宮武との出会い –
第3話 – 激動する市場の中で、「小宮商店の洋傘」が形となる –

BRANDS
ブランド紹介