小宮商店 KOMIYA SHOTEN

国産洋傘のパイオニア・仙女香坂本商店をめぐる物語
第二回 松井千恵さんとの邂逅

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五月某日、私たちは片瀬江ノ島駅に降り立ちました。
かつて東京銀座にて国内初の国産洋傘製造に成功した「仙女香坂本商店」の末裔、松井千恵さんとお会いする為です。 この日は朝から激しい雨、観光地として人気のある江の島一帯も週末の賑わいが嘘のように閑散としていました。 洋傘の資料収集・歴史検証を普段から行っている社長の小宮を初め品質管理担当の満田、ブランディング担当折田、製造担当田中の計4名が取材スタッフとして参加しました。 当時の洋傘文化のことはもちろん、手元の資料では判然としなかったことなどをリストアップし、事前に綿密な打ち合わせを組んでこの日に臨みました。

「ずっと昔の話だけど、私の一族は洋傘を販売していたんです。銀座の坂本商店というお店で」
お客様として修理依頼にお越し下さった板場良子さんの何気ないお言葉が、この機会を与えてくれたのだと思うとまさに奇跡の一言と言えます。 板場さんは松井千恵さんの姪にあたり、無理なお願いにもかかわらず本日の取材を快くセッティング下さいました。

小宮商店では、日本の洋傘文化と歴史を掘り下げ体系化していくことにも常に取り組んでいます。 シンプルに言うと温故知新、この部分を深く追求せず次世代に繋ぐタフな「ものづくり」を成すことはできません。 小宮商店全社員が抱いている使命を形にする大きな機会を、たまたま訪れたお客様の一言によって与えられる――おおげさかもしれませんが私たちにとってこのことは奇跡と呼ぶ以外にありません。

明治の傘
明治時代の日傘や傘用ミシンなど、当時を知る貴重な品々も収集・調査しています

板場さんは約束の時間より早い電車でご主人とご一緒にお越しくださいました。
ご案内頂いたのは駅から歩いて五分とかからない場所にあるシャルトル聖パウロ修道女会片瀬修道院。 隣接する湘南白百合学園小学校は運動会の日であるらしく、校庭には色とりどりの国旗が飾られていました。 今回の取材のためにご用意いただいたお部屋へと案内され板場さんご夫婦と改めてご挨拶、そうしている内に松井千恵さんご本人がお越しくださいました。

御年九十六歳ということが嘘のように活き活きとされ、明るい笑顔がとても印象的です。 この日のためにまとめてくださった手書きの資料を元に当時のことを丁寧に語って下さいました。


現在千恵さんは片瀬修道院の修道女として祈りと信仰の日々を送られています

松井千恵さんは国産の洋傘量産を成功させた仙女香坂本商店六代目・坂本友七氏のお孫さんにあたります。 友七氏の取り組みは製造工程に限らず、現在に続く国産洋傘メーカーの事業形態のパイオニアともいえ、そのスタイルは現在とほとんど変わっていません。 少し余談になりますが、ちょうど同じ時期に洋傘骨を中心に商っていた河野寅吉氏が英国フォックス社の開発したU字断面親骨の国産化に成功しています。 坂本友七氏と河野寅吉氏、日本の洋傘事業の礎を築いたスーパースターが時を同じくして奮闘していたことに思いを馳せると胸が熱くなります。

仙女香

千恵さんは当時の貴重な写真も沢山ご用意下さり、幼かったご自身の思い出と共に、思い出せる限りの「傘のこと」を語って下さいました。 宣伝を兼ねて商品の日傘を手に銀座の街をパレードしたことや、まだまだ高級品だったことを証明するようにお客様の多くは身分の高い方が多かったこと、色数は少ないけれど子供ながらにも生地の質感の良さがわかったこと、戦時中に亡くなった友七氏の葬儀は質素ながら多くの人が列席し大変な賑わいとなったこと……。 千恵さんの口調はとても滑らかで穏やかで、過ぎ行く時間を忘れ聞き入ってしまいました。

また、傘のことに加え合間に挟まれる当時の生活のお話は尚のこと魅力的に響きました。 お店のすぐそばにあった銀座伊東屋で鉛筆を買ってもらったことや、関東大震災で被災した後に幼い千恵さんが住んでいた本郷駒込に友七氏が引っ越してきたこと。 これにより界隈に住んでいたご一族との日々は一層思い出深いものになったそうです。 第二次世界大戦がはじまると京都風の立派なお庭には防空壕が掘られ、生活の端々にも混乱した様子が見受けられたことは子供ながらに覚えているとお話しくださいました。 戦後は居住者の人数によって土地の税収をされ、その高価なことにどの家でも下宿を入れるのは当たり前になったことなど、当時の日本の不安定な財政事情も窺い知ることができました。

「おじいちゃま(右端・友七氏)がサンタクロースに扮してね、プレゼントを配ってくれたのよ。 クラッカーを鳴らしたりして、楽しかったわ」

ただ、私たちが準備してきた「傘のこと」に関しては、一方的な言い方になってしまいますが、掘り下げて聞き出すことはできませんでした。 幼かったこともあり、あくまでも千恵さんの記憶の中の小道具として留まっているに過ぎないという印象です。 同時に、だからこそ私たちは取材ということを忘れて千恵さんの話に引き込まれたとも言えます。 お伺している間あたりを包んでいたのは、目の前のスクリーンに映し出される物語を一緒に観ているような一体感でした。 ひとえにそれは、千恵さんの経てきた人生が今もまだ美しく輝いていることの証であると言えるでしょう。 述懐する千恵さんの少女のように輝く瞳が、そのことを教えてくれました。

褪せることのない美しい日々の記憶。 終わることなくそれはまだ、いまとここに確かに息づいているのです。 坂本友七氏をはじめ坂本商店が目指していたであろう「美」への想い。 時を越えてその片鱗に触れることができたと、千恵さんとの邂逅を通して実感しました。

「女の子に「美」がつく名前が多いの。 この字が好きだったのかしらね」坂本友七氏が託した想いは、しっかりと繋がり続いています

最後に御堂へとご案内頂きました。 緊張しながら足を踏み入れましたが、心身が自ずと溶け込んでいくような、不思議な空間でした。 慈愛に溢れた雰囲気に千恵さんの人柄を重ねずにはいられません。
「運動会をするかどうか悩んでいるらしいのよ。 空はだいぶ明るくなってきたけど」
そう言って笑う千恵さんの言葉に促され窓を見ると、いつの間にか雨はすっかり止んでいました。

――語り継がれるような美しい記憶を繋げていくこと。
千恵さんの見せてくれた脈々と続き広がる家系図を拝見しながら、そのようなことを思いました。 私たちが繋ぐべきものづくりの家系図は、いうまでもなく途上にあります。 それでもやがて繋がりは広がり、いつしか誰かの美しい記憶の一部となって息づき始める……難しいことかもしれませんが、千恵さんとの出会いはそれが可能であることを示してくれる希望の瞬間となりました。
会社に戻り、改めて当時の仙女香の傘を取り出し眺めてみました。 開くことも怖くなってしまうくらいに生地は傷み、細かい部分にはひび割れや部品の欠損も見られます。 しかしその姿は不思議と誇らしく、頼もしくすらあります。 長い時を経て受け継がれてきた一本の傘は、私たちが目指すべき境地を力強く指し示している。 取材を終えて、私たちはそのことを強く確信しています。

仙女香 c日傘

最後になりましたが、この日のためにご尽力、ご協力いただきました松井千恵さん、板場さんご夫妻、片瀬修道院のみなさま、そして日本の洋傘業界の礎を築いてくれた仙女香坂本商店に関わる全ての方に謝意を表し今回の報告を終了します。

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