小宮商店 KOMIYA SHOTEN

2019.02.07傘コラム

なぜ、白粉のNo.1ブランドは洋傘に商売替えしたのか?

文明開化で目覚め、純国産の洋傘作りに賭ける

今回は、江戸後期の話から始めましょう。
当時、白粉(おしろい)のブランド「仙女香」を展開し、浮世絵や出版物に広告を大量に載せる戦略で、江戸の女性をとりこにして人気No.1化粧品に押し上げたのが坂本商店です。
しかし、時代は明治に変わり、西洋化が進む中で白粉は下火になっていきます。そこで、危機感を抱いた五代目当主の坂本氏は、鎖国の夢から覚め、大胆な路線転換を図ります。
文明開化の象徴的な商品である輸入洋傘をいち早く取り入れ、販売を開始すると同時に、日本製洋傘作りに邁進したのです。

明治5(1872)年には、早速輸入洋傘を分解し、部材の準備を始めます。
肝心な生地は、400年の歴史を持つ甲州織のひとつである「甲斐絹(かいき)」という絹織物に目を付けます。甲州絹を洋傘生地に改良し、部材と組み合わせることによって、国内初の日本製洋傘を作り上げたのです。
その後、増える需要に応えて技術を磨き、坂本商店の作る日本製洋傘は舶来品に劣らない品質に進化していったのです。

明治20(1887)年、先代の流れを引き継いだ6代目の坂本友七氏は、フランスのパリで5年間にわたり武者修行。
最先端の製法や流行を研究して帰国し、洋傘の発展に尽力します。明治23(1890)年には、骨の鋼材の強度を増すための焼き入れが国内工場でも可能になり、今からおよそ130年前、骨も含めた洋傘の“純国産化”が、ここにようやく実現したのです。

不毛の地から洋傘生地の名産地になった甲斐の国

坂本氏が洋傘の生地に採用した甲斐絹にも物語があります。甲斐絹は、慶長年間(1596~1615年)以前に、印度(インド)から輸入された絹織物がルーツと言われています。
当初は「海気」「海黄」「改機」(いずれも「カイキ」と読む)などと記述され、寛永7(1630)年頃には日本全国に広まり、甲斐(現・山梨県)の郡内にも伝わります。

その頃の甲斐の国は土地が痩せており、作物に恵まれない、いわば不毛の地。しかし、桑の木だけは良く育ち、そこから光明を見出します。
言うまでもなく、桑の葉は蚕の大好物であり、養蚕業が発展。質の良い絹糸が豊富に産出し、織物の質を左右する水質にも恵まれたことから、絹織物の一大生産地になっていったのです。

甲斐の絹織物は「郡内海気」と称され、明治8(1875)年には「海絹」と記述されるようになります。
そして、明治10(1877)年頃から、「海」を同じ読み方の地名である「甲斐」に置き換え、当時の「甲斐絹」という名称が使われるようになったわけです。
現在では絹だけでなくポリエステルなどの素材も織られるようになり、「甲州織」として山梨の織物の伝統を受け継いでいます。

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